桶狭間の合戦

合戦のセオリー

神話

永禄三年(一五六〇年)五月(新暦では六月)、尾張の国(愛知県)で日本を揺るがす大事件が起きた。桶狭間の合戦である。

駿河の大大名、今川義元は、大軍を率いて三河と尾張の国境付近に進出していた。迎え撃つ尾張の小大名、織田信長の手勢はわずか。勝負の行方は誰の目にも明らかだった。

だが、この時、信長には勝算があった。少勢をもって大軍を打ち破る方法はただひとつ、敵の大将首を直接ねらう奇襲作戦しかない。信長は家臣の簗田出羽守(政綱)に命じ、義元の本陣の場所をひそかに探らせていたのだ。

前線の丸根砦・鷲津砦で戦闘がはじまると、信長は軍勢を率いて出陣する。そして、ついに彼の待ち望んでいた情報が簗田によりもたらされる。「敵は桶狭間にて休息中」。

信長は全軍に命じ、前線を迂回してひそかに移動して、義元の本陣の裏に回りこむ。そして、油断しきっている今川軍の本陣めがけて、一気に攻撃をしかける。あわてた今川軍はパニックにおちいってしまい、やがて信長の最初の思惑通り、義元本人が討ち取られてしまったことで、今川軍は潰走したのだ。

この桶狭間の合戦は、大軍を擁しているからといって油断していると足下をすくわれてしまうとか、戦場においていかに情報収集が大切かといったことなど、様々な教訓を後世に残すことになった。

真実

織田信長の事跡を知る上でもっとも信頼できる史料とされているのが、信長の家臣、太田牛一によって著された『信長公記』である。

牛一は、信長による尾張一国統一以前から、信長の元で戦闘員として活躍していた。信長の主要な合戦のほとんどに実際に従軍しており、桶狭間の合戦にも当然参加していたと思われる。

そんな当事者の書いた記録である『信長公記』の、桶狭間の戦闘経過を描いた箇所には、私たちが信じていることとはまったく違ったことが書かれている。

実際はこうだった

桶狭間の合戦における、信長軍の進路の図。『信長公記』の記述は、通説とかなりちがっていることがわかる。

事の起こりは、尾張南部の鳴海城城主、山口左馬助(教継)が信長を裏切り、今川義元のもとへ走ったことだった。山口は鳴海城のほか、近隣の大高城と沓掛城も味方に引き入れたことで、尾張南部が一気に今川領となってしまった。

信長はこれに対し、鳴海城の周囲に丹下・善照寺・中嶋の三砦を、大高城の周囲に丸根・鷲津の二砦を構えることで二つの城の補給線を絶ち、孤立させる作戦をとった。敵の拠点の周囲に砦(「付け城」という)を構えて封鎖するのは、当時の合戦のセオリーに則した、常識的な作戦である。

義元は、鳴海・大高両城救援のため、自ら大軍を率いて出陣する。沓掛城に入った義元は家臣の松平元康(後の徳川家康)らに、大高城への兵糧補給と、丸根・鷲津両砦の排除を命じた。元康らは、夜行軍して大高城に兵糧を入れ、翌朝の夜明けと同時に丸根・鷲津砦を攻撃、これを攻略した。

一方の信長は、敵の攻撃を察知した丸根・鷲津砦より警報が入っても動こうとせず、ろくに軍議も開くことなく、家臣たちも家に帰してしまった。しかし、翌朝、両砦に対する攻撃が開始されたという報告を受けると、一転して出陣。熱田を経て丹下砦、続いて善照寺砦に入り、味方の集結を待った。(途中で、丸根・鷲津砦の方向から煙が上がっているのを見て、両砦の陥落を知った)。

正午頃、信長は、最前線の中嶋砦への移動を命令する。しかし、家老たちは強くそれを制止した。こちらがまったくの無勢である様子が、敵にまるわかりになってしまうことを懸念したからだ。しかし、信長はそれを振り切って、強引に中嶋砦に移動する。このとき、織田軍は総勢二千にも満たなかったという。

中嶋砦に入った信長は、さらに、砦の前面の敵軍への攻撃を命ずる。家老たちは今度も無理にすがりついてまで止めようとしたが、信長の決意は変わらず、織田軍は出撃する。そして、中嶋砦の前面に展開する今川軍に一気に攻めかかり、これを撃破する。

このとき、義元の本陣はすぐ後方の丘の上にあった。一連の事態を受け、義元は旗本たちに守られつつ撤退を開始する。しかし、その姿を信長に捕捉されてしまう。信長は、旗本たちに攻撃を集中するように命令を変更する。午後二時頃のことであった。

義元を中心に円陣を組んで防戦に努める旗本たちだったが、織田軍の波状攻撃を受けて、その人数を次第に減らしていく。信長自身も馬を下りて攻撃隊に参加する中、敵味方問わずおびただしい死傷者が出る大乱戦の末、ついに義元本人が討ち取られてしまう。

信長の戦術意図

以上のように『信長公記』には、これまで常識のように語られてきた、「信長は義元本陣の背後にひそかに回りこんだ」といったことは書かれていない。それどころか、信長は「無勢の様躰、敵方よりさだかに相見え候」という家老たちの不安を無視して、今川軍の見ている前で軍勢を移動させ、その後、普通に正面から攻撃をしかけていることがわかる。

信長は開戦前から義元の首だけをねらっていたというのも、どうやら違う。中嶋砦を出撃する前、彼は部下たちに具体的な指示を与えているが、それは「懸らばひけ、しりぞかば引付くべし」とか、「分捕りをなすべからず、打捨てたるべし」といったことだけで、「敵将をねらえ」とか「義元はあそこだ」といった類のことは一言も口にしていないのだ。

いくら信長が「決断を秘す」(ルイス・フロイスの言)性格だったとはいえ、攻撃開始直前の訓辞で部下たちに正しい戦術意図を伝えないとは考えにくく、この時点で信長には義元の首を取る意図などなかったことは間違いない。彼が敵の旗本たちに攻撃を集中するよう命令したのは、開戦後しばらくして、義元の本陣を捕捉したあとのことである。

義元の首が目的でなかったのならば、では、信長はそれ以外のどういう意図にもとづいて敵に攻撃をしかけたのだろうか? 彼にはそのとき、いったいどのような成算があったのだろうか?

そのヒントは、やはり『信長公記』に記録されている、信長自身の言葉の中にある。中嶋砦からの出撃前に信長が部下たちに出した指示の中に、次のような一節がある。

あの武者、宵に兵粮つかひて夜もすがら来り、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなたは新手なり。

つまり信長は、早朝の戦闘で疲労した敵を、温存していた主力でたたくという作戦を立てていたのだ。前日に丸根・鷲津砦から警報があった段階では兵を動かさず、翌朝に攻撃開始の確報が入った時点で出陣している理由も、これでよくわかる。

大軍との戦い方

少ない兵力で大軍と相対する場合には、それなりのやり方というものがある。

何よりも大事なのは、なんとしても正面衝突だけは避けるということだ。そして、敵の移動中や疲労時などの隙をねらってちまちまとダメージを与えていき、じわじわと圧力をかけるという戦い方がセオリーになる。(姉川の合戦で、信長の大軍に小谷城を囲まれた浅井長政も、織田軍の移動時をねらって小さなダメージを与える作戦をとっている)。

大軍を維持するには、消費する大量の兵糧など、膨大なコストがかかる。敵地への長駆遠征ともなればなおさらだ。迎え撃つ側としては敵のこの弱点を突き、ずるずると戦闘を膠着させて小ダメージを蓄積させていけば、やがて敵は撤退せざるを得なくなってしまうのだ。

信長もこのセオリーに従い、疲労した敵をたたいて小規模な損害を与えてやろうと考えていたに過ぎないと思われる。なによりも、現実主義者であった彼が「義元の首をはねて一発逆転」などという夢想を抱いていたとは考えられない。

ただ、中嶋砦の前面に展開していた部隊を指して、「あの武者たちは辛労して疲れている」と言った信長の言葉は、実は完全に誤りであった。そのとき、丸根・鷲津砦を攻略した松平元康らの部隊は、大高城に引き上げて休息を取っており、中嶋砦の前面にいたのは、沓掛城からまっすぐやってきた新手の部隊だったのだ。

しかしもちろん、信長にはそんなことを知るすべはない。戦場が今川軍に完全に占領されていた以上、そうした情報を得る手段はないのだ。それでも彼が勝利を手にできたのは、たまたまその敵部隊の背後に義元の本陣があったという、大変な強運に恵まれたからなのである。

簗田出羽守伝説

そうなると怪しくなるのが、これまた常識のように語られている、簗田出羽守(政綱)が信長に敵の本陣の位置を通報したことが、信長の勝因になったという話である。

そもそも信長には、義元の本陣の位置を知ろうとする意図がなかったのだから、部下に命じて本陣の位置を探らせるという行動に出るわけがない。それに、もしもこの情報が決定的勝因になったとすれば、当然『信長公記』にも記述があってしかるべきだが、実際にはそのようなことはまったく書かれていない。したがって、この話もまた創作だと考えるのが妥当だろう。

万が一、本陣の位置の通報が本当にあったとしても、その情報をもとに行動するのは非常にリスクが高い行為である。

第一に、その情報が真実である保証はなにもない。敵に占領されている地域の状況を、正確に知ることは難しいのだ。実際信長は、中嶋砦前面の敵が早朝の戦闘を経て疲労した部隊なのか、それとも新手の部隊なのか、正確な情報をもっていなかった。目の前の敵についてさえ、正しいことがわからない状況だったのだ。

第二に、たとえ伝えられた情報が正確だったとしても、その後、敵が本陣の位置を移動する可能性もある。敵もまた、状況に応じて様々な対応策を講じるだろう。もしもそんな中で本陣を移動されてしまえば、たちまちこの情報は無価値となる。

義元の本陣の位置を捕捉した簗田出羽守が、前線の味方に素早く通報するためには、それこそ携帯電話の助けが必要だろう。そうでないなら、歩いて味方の陣地まで、情報を運んでいくしかない。奇跡的に敵に見咎められずに信長のもとにたどりつけたとしても、その時点でそれが最新の情報でなくなっている可能性もある。

そんな状況で簗田の情報をもとに作戦を立てることなど、愚の骨頂と言うほかない。

義元の敗因

最後に、今川義元の立場に立って、彼の敗因はなんだったのかを見てみよう。

後世の義元に対する評価は非常に低く、「油断して戦場で酒宴を開いていた」とか「部下たちも武具を脱ぎすてて飲み食いしていた」など、完全に愚将扱いである。

しかし、義元は本当に油断していたのか? 少なくとも『信長公記』には、義元の対応に目立った落ち度があったようなことは書かれていない。「義元の油断」という常識もまた、「大軍を擁して負けたのだから、油断があったのだろう」という、後世の人々の思いこみである可能性がある。

大高城の解放に首尾よく成功した義元は、遠征の最終目標である鳴海城の解放に向けて、軍勢の再配置をすすめていたものと思われる。信長の率いる敵主力が前線にいなかったので、余裕をもって次の戦闘の準備に当たることができただろう。

合戦の常識的なやりかたのひとつに、敵にこちらの戦術意図や軍勢の規模をさとられないために、前日の夜の暗いうちに陣形を整え、夜明けとともに戦闘を開始するというものがある。だから、その日の朝、前線に織田軍の主力がいなかった時点で、義元が「今日は信長は来ない」と判断したとしても、それほど不合理なことではない。もしも信長が常識に従って朝から善照寺砦に入っていれば、義元も主力衝突に備えた対応を取っていただろう。

しかし信長は、上述の戦術意図のため、わざと戦場に遅れて到着した。いったん「信長が来ない」ことを前提に動かしていた大軍を、大急ぎで軌道修正して新たな事態に対応させることは困難だ。しかも、信長の意図は完全な誤解にもとづくものだっただけに、今川軍の側も、信長の真意を最後まで量りかねただろう。

そうこうするうちに、信長はあれよあれよという間に攻撃をしかけてきて前線を突破し、あっという間にその後方の義元本陣まで飲みこんでしまった。信長が善照寺砦を出てから義元の戦死まで、わずが二時間あまり。織田軍の真骨頂ともいうべきスピードに対して、義元は適切に対処することができなかったのである。

(2005年12月8日)

参考文献