ゲーム脳の恐怖

科学と非科学のちがい

神話

ゲーム中毒の子を持つ親は、注意しなければならない。あなたの子供も「ゲーム脳」になっているかもしれないのだ。

ゲーム脳とは、痴呆症の人と同じように、脳波のβ/α値が大きく低下してしまうという、異常な脳の状態のことだ。テレビゲームをやりすぎることによって痴呆症の人と同じような脳状態になり、次第に回復しにくくなってくる。

このことが発見されたのは、ほんのちょっとしたきっかけからだった。

ある大学の研究室で、脳波を測定する機器を調整していた際、そのソフトウエアを開発していた八人の技術者を実験台にして、試しに脳波が記録された。ところが驚いたことに、八人が八人とも痴呆症の人と同じ脳波を示したのだ。

最初は機器の不調が疑われたが、第三者の脳波を測定してみたところ、何も異常は見られない。これはやはり、ソフトウエアの開発者の脳の方に異常があるということだ。

いったいなぜか? ソフトウエア開発者はほとんど九時から五時まで、ずっとモニターに向かったきりだ。脳の異常の原因は、長時間画面に向かっているせいではないのか? だとすると、同じように画面を長時間見つめるテレビゲームでも、同じことが起こるではないのか? 早速調べてみなくては……

そうして詳しく調査された結果は、驚くべきものだった。普段ゲームをやらない人にゲームをさせても、β波の低下は見られなかったが、ゲームを毎日長時間プレイする被験者にゲームをやらせたところ、β波がみるみる低下して痴呆症の人と同じ脳波を示したのだ。やはり、長時間ゲームに接し続けることが、脳に悪影響をあたえていたのだ。

これらの調査結果は、『ゲーム脳の恐怖』という本として出版され、世の中に警告が発せられた。『ゲーム脳の恐怖』はベストセラーとなり、ゲームのやりすぎで脳が異常を来すという事実が、広く人々に知られるようになった。

私たちは、この警告に耳を傾け、ゲームとのつきあい方を根本から考え直す必要がある。

真実

『ゲーム脳の恐怖』が発売されるや、たちまち数多くの信奉者を集め、出版から四年になろうかという今なお、自治体の主催で著者の講演会が開かれたりもしている。

この本を権威づけているのは、科学者によって書かれたという事実であり、「テレビゲームの害を科学が認めた」という構図が、多くの人々を引きつける要因になっている。

しかし、実際のところ、『ゲーム脳の恐怖』に書かれていることは、科学でもなんでもないのだ。

本当に科学的か?

『ゲーム脳の恐怖』の主張は、短く要約すると、「ゲームをする人は痴呆症の人と同じ脳波を示し、危険である」というものだ。

だが、本当に脳波が同じであるということが、とりもなおさず脳の状態が同じということを意味するのだろうか? 両者の脳が同じような機能低下を起こしているということが、脳波が似ているというだけで断言できるものなのだろうか?

この本でいう「痴呆症の人と同じ脳波」というのは、β波が低下してβ/α値がゼロに近づいた状態のことをいう。しかし、α波やβ波の上下は様々な理由によって起こる。よく知られているのが、リラックスしている状態のときにはα波が上昇してβ波が低下し、緊張状態のときはその逆になるというものだ。

「ゲーム脳」が着想されるきっかけになった、ソフトウエア開発者のβ/α値が低かったという事実だが、本当にそれが痴呆症の人の場合と同じ原因でそうなったのかということは、その時点で断定することはできないはずだ。両者のβ/α値の低下が同じ理由によるものであるかは、それ自体が科学的に検証されなくてはならないことである。

たまたま私はフリーウエア屋みたいなこともやっているので、ソフトウエア開発のなんたるかはある程度わかっているつもりだが、コンピューターのプログラムを書くというのは、様々な論理の連鎖を隅々まで把握しなければならない、論理的思考力を要求される骨の折れる作業である。

そうした作業を長時間続けた後には、どうしても頭の中を空っぽにしてリラックスしたくなる。当然、そんな状態にある私の脳は、β/α値が大きく低下していることだろう。はたしてこのβ/α値の低下は、痴呆のような脳状態が原因なのか? リラックスが原因なのか?

仮に「ソフトウエア開発者のβ/α値の低下が、痴呆が原因のそれと同じ」という仮定を認めたとしても、「それは長時間コンピューターの画面に向かうことによって起こるので、テレビゲームでも同じことが起こるはず」という理屈は妥当なのだろうか?

私が、同じ「コンピューターの画面に向かっている」という状態にあるときでも、プログラムを組んでいるときと、このページのような日本語の文章を書いているときと、漫然とウェブを閲覧しているときでは、やはり脳の使い方は違うのではないかという気がするのだが、そうした作業の違いなど関係なく、とにかくコンピューターの画面に向かうことがβ/α値の低下をもたらすのだと断言するためには、コンピューターに向かってそれぞれちがった作業をしている多数の人々の脳波を測定し、それを比較してみる必要があるはずだ。

科学のルール

このように、『ゲーム脳の恐怖』の論証は、極めて不十分なものだ。

「ゲーム好きほど、ゲームをしている時のβ/α値が低い」という、この本の根幹ともいえるデータにしても、「それは、ゲームに慣れた人が、慣れ親しんだゲームを前にリラックスしているだけではないのか?」と、容易に批判できる程度のものでしかない。

得られたデータからは様々な意味を読み取ることが可能であるにもかかわらず、「ゲーム脳」というひとつの結論以外は検討もしないというのは、科学的態度とはほど遠いものだ。

科学の世界は、こうした不完全な研究が世の中に混乱をもたらさないように、長い時間をかけて厳密なルールを作ってきた。すなわち、重要な科学的発見があったときは、まず詳細な学術論文を書いて、しかるべき学術誌に掲載してもらうか、学会に報告するかしなければならないというものだ。

論文では当然、何人の被験者に対して、どういう方法でテストを行い、どのような結果が得られたのかという、くわしいデータが公開される。論文を読んだ科学者たちは、そうしたデータやその処理方法が妥当かどうか、追試を行うなどして検討する。そうして、その新発見がどうやら間違いないということになってはじめて、(必要ならば修正を加えて)公表するという手順を踏むのが正しいやり方である。

これは一見したところ、遠回しで面倒な方法に思える。しかし、科学的に間違ったことを可能な限り世に出さないための、唯一の方法でもある。まず最初に、学会などの科学者コミュニティ内でくわしく吟味することで、誤った新説をふるいにかけるわけだ。

もしも、そうした検討を経ていない不確かで不完全かもしれない新説を、世間に宣伝することが奨励されるようになれば、科学の世界はたちまち大きな混乱に陥ってしまうことだろう。

一例を挙げる。

常温核融合騒動の教訓

「核融合発電」の技術が実用化されれば、人類は無尽蔵で無公害のエネルギーを手にすることになる。現在、実用化の障害になっているのは、核融合のためには途方もない高温が必要だという事実だ。もしも、核融合を室温並みの十分な低温(常温)で行うことができれば、地球のエネルギー問題を一挙に解決する足がかりになる。

一九八九年、アメリカのユタ大学のB・スタンリー・ポンズと、イギリスのサウサンプトン大学のマーティン・フライシュマンは、自分たちがその方法を発見したと考えた。彼らが第一発見者として認められれば、ノーベル賞はほぼ確実だったし、特許を出願すれば莫大な富が約束される。

しかし、ポンズとフライシュマンは、ブリガム・ヤング大学で同様の研究が行われていたことを知っていた。なんとかして優先権を確立したい誘惑に負けた二人は、論文を学術誌に送る前に記者会見を行い、マスコミ発表をするという禁じ手に訴えた。

このニュースはたちまち世界中をかけめぐり、一大センセーションを巻き起こした。そして、世界中の研究者、マスコミ、政府を巻き込んだ大混乱になった。やれ追試に成功したのしなかったのという報告がマスコミに踊り、研究予算をめぐる政治家の発言が、現場に無用のプレッシャーを与えた。

やがて、この研究に対する否定的な追試結果が蓄積しはじめたが、ポンズとフライシュマンは、それに再反論することができなかった。二人は失職を余儀なくされ、科学者としてのキャリアを失うことになった。

もしも二人が、まずは論文を学術誌に掲載してもらって他の科学者たちの検討にゆだねるという、ルールに従った行動をとっていれば、「まあ、まちがいは誰にでもあるさ」で済んだ話である。(実際、同じ研究をしていたブリガム・ヤング大学のグループは、これといった批判を受けていない)。

このように、新しい発見が科学界で認められる前に一般発表するというのは、時には科学界からの永久追放をともなうこともある、重大なルール違反なのである。

科学と非科学を見分ける

『ゲーム脳の恐怖』がベストセラーになったことで、この手の「科学的」ゲーム害悪論に一定の需要があることがわかり、その後も似たような著作が次々に出版されるようになった。その中には『ゲーム脳の恐怖』と同様、ベストセラーになったものもある。

だが、それらの「科学的」な著作に書かれていることは、いずれも学会での検討を経た正式な学説ではない。

これらの本の著者たちが、科学のルールに従って学術論文を書かずに、一般書という形で自説を公表している理由は、だいたい見当がつく。論文を公表して科学界に吟味してもらうという手続きに従うと、当然上記のような論点の不備を指摘される。彼らには、そうした批判的検討に耐える自信がないのだろう。

自説を著書にして世に問うことは、なにも悪いことではない。しかし、それが学問的な新説として正式に認められるためには、そのためのルールに従う必要がある。

「ガリレオは、最初は科学界から認められなかったではないか」という反論が予想されるが、これは事実に反する。ガリレオを弾圧したのは宗教界であって、べつに彼は科学界からつまはじきにされたわけではないのだ。

ある主張が、本当に科学的な新説なのか、それとも非科学的な妄言なのか、見分けることは難しい。しかし、それが学会の場で詳しく検討されたものであるかどうかは、素人でも比較的容易に知ることができる。

『ゲーム脳の恐怖』のような著作に接したとき、私たちのとるべき態度は、「科学者の書いたものだから科学的なのだろう」と盲信するのではなく、本当にそれが科学界での吟味を経た正式な学説なのかどうかを見極めることだ。

そうすれば、私たちが科学的に誤った主張に振り回されることも、少なくなるだろう。

(2006年5月25日)

参考文献